革張りの、アイボリーのソファに座って、退屈そうな表情で薄い文庫本をめくる彼の姿を、いつものようにぼんやり眺めていた。紺色の髪の毛、同じ色の瞳、筋や骨が浮き出て見える細い手首や首筋に、艶のない上品な白のカッターシャツがとてもよく似合っている。
焦点を合わせずに彼を見ていると、しばしば生き物以外のもののように見える。ハイテクで汚れのない水槽か何かみたいだ。ずっと眺めていると現実感が薄れていく、吸い込まれて意識がなくなるみたいになる、たくさんの鮮やかな色をした魚などを泳がせているあの水槽の色に、彼は変わっていく。レースのカーテンを通した陽の光が緩慢な曲線を描いて、水底でゆらめくそれのように彼を照らすから、私には彼がどんどん形を失っていくように感じられた。
彼はもうすっかり水に溶けてしまっている。或いはガラスになって身を隠しているのだろう。幾度も屈折してなめらかになった光と慢性的な静けさに覆われた世界で、細かな気泡を吐きながら、私は暗いところへ吸い込まれていく。すでに髪や指の先は溶け始めているかもしれない。そうやってほどける絹のように溺れていく。深い深い水底につくことはない。それは熱を帯びた空気に溺れるよりもずっと素敵なことに思える。冷たく澄んだ水槽の水にくるまれて見る世界はどれほどきれいなのか、想像しようとしたけれど。
それとほぼ同時、彼が本を閉じてしまった。
本を横に置いて首を回して、伸びをして、私の視線に気付いてふわっと笑った。
その瞬間、水槽が魚もガラスも諸共に溶けて、私と彼が近くなるのを感じた。私を包んでいた水はさっと飛び散って、生き物、紺色の髪の痩身な男に戻った彼は足を組んで、レースのカーテンがなびく窓の外に目をやる。私は急に空気にふれて一瞬呼吸が止まったけれど、何事もないように装って、言った。
「あ、コーヒー飲む?」
「…ん、うん」
まだふわふわする頭でキッチンへ向かう私の後ろから煙草の匂いが追って来た。喉まで届くキュッとした苦い匂いで、水の気配ははもうなくなった。コーヒーを暖めなおしてリビングへ戻ると、煙草の匂いがより濃厚に、煙と一緒に漂っている。
「ねえ、溺れていくって、いいと思わない?」
「え?」
僅かな光を湛えた、青色の中へ。
「今度水族館へ行きましょう。」